about myself

みずです。

 

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simple、soft、clean、pureを目指して。

ゆるゆるミニマリスト

うつと共存して4年目。

占いを嗜みます(西洋占星術、タロット、ルノルマン)。

うさぎは永遠の推し、ねこは暮らしの癒し。

本を浴びるように読みたい。

カメラ:Leica D-LUX typ109 / FUJIFILM X-E3。

 

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ゆっくり更新していきます。
よろしくお願いします。 

 

【名刺代わりの本10選】

八本脚の蝶/二階堂奥歯
氷の海のガレオン/木地雅映子
砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない/桜庭一樹
ハーモニー/伊藤計劃
観念結晶大系/高原英理
コンビニ人間/村田沙耶香
西の魔女が死んだ/梨木香歩
マレ・サカチのたったひとつの贈物/王城夕紀
本を書く/アニー・ディラード
すべての、白いものたちの/ハン・ガン

 

2024.2.13更新

通じない言葉と感度

2014年に書いたものの再掲。

 

言葉が通じないひとがいる。普段使う言語が違う方や歳の離れた方が相手だからというわけではない。それなのに、わたしの使う言葉に対して「意味がわからない」と言われることがある。自分でこれはわかってもらえないだろう、と思って話すときは気にしないのだけど、日常生活でそれを言われるとやっぱり引っかかる。難しい言葉はあまり使わない方なのだけれど。

 


何かを物語るときには、物語りを受け取る相手に感度が必要。お互いの感度が共鳴して初めて相手は物語を受け取ることが出来る。物語りの深みを増していくためにはその共鳴の精度を上げていくこと。

これは【ものすごくうるさくてありえないほど近い】と【LEON】を題材にして「弱さの感度」について触れた講義で教授が言っていたこと。語るという作業で内面を表出するとき、受け手にそれを受け止められる感度がなければ、行き場をなくして存在をなかったことにされるものがある。

誰かの話を受け止めるには、それに含まれた「何か」に対して共鳴できる感度が必要だということ。含まれていた感情がどのようなものなのかはひとまず置いておくとして、話に出てきたその「何か」は物語りとして受け止められたときに初めて「意味のあるもの」になる。それらが意味を持つことが出来て初めて、「語り手が悲しみや喜びを表出した」ことになる。それを自分の感覚として理解できるかどうか、理解した上で踏み込めるかどうかが感度の共鳴の度合いということになる。*


感度の共鳴に何が必要か、色々ありそうだけれど、わたしは第一に想像力だと思う。言葉を用いて自分の感情を相手に共有し、そこからは相手の想像力に委ねること。共鳴の強度で言えば"同じ場にいて同じ経験、同じ感情を共有していること"に勝るものはないと思うが、自分以外に自分と全く同じ経験をしている、同じ心の構造を持つ人間はまずいない。共有された感情や思考をまず相手のものとして受け止め、そこに至るまでの過程を想像し、心と身体へ通して自分のこととして反応する、その応酬によって共鳴が発生していく、というアンテナ(感度)としての機能を自覚することが必要だ。


もしそのアンテナがなかった場合、「なんでそんなことが起こったのかがわからない」「なんでそう思ったのかがわからない」といった事象が発生する。

こんなときに使われるのが「最大公約数の言葉」だとわたしは思っている。様々な概念を含有する無数の言葉たちのなかで、みんなに伝わる大きな枠組みを持つ言葉。みんなが持っているであろう感情や感覚。理解されやすい簡単な表現。「買ったばっかりのソフトクリームを地面に落とした、"悲しい"。」そう言えばみんなわかってくれる。もっと言いたいことがあって、使いたい言い回しがあって、悲しいなんて一言じゃ済まなくて、でもそれを使うとわかってもらえないから。みんながわかる言葉で、アンテナがきちんと立つように。

最大公約数の言葉でも伝わらないこともある。そこにアンテナを立てることが出来る、ということ自体を知らなかった場合。例えば、死生観や生きる苦しみ、家族への絶望について。経験したことがないだけでなく、想像もつかないのだろう。フィクションとしか思えないのだろう。

 

わたしがそのまま使う言葉はきっと、みんなのアンテナに引っかからないのだ。最大公約数の言葉ばかりで喋ると疲れてうんざりしてしまうのに。いちいちわたしの言葉は周りに合わせて翻訳される必要があるみたい。52Hzのクジラなのかな。


***


過去を物語るということは過去の記憶を今の言葉で編集するということで、自分が編集するのだから自分にとって耳触り手触りが良いものになるのは当たり前だ。自分に都合が良くなるように切り貼りして繋いだとしても自分以外にはわからない。過去の時点で存在していなかった、今に至るまでに得てきた思考や経験が過去の物語りを修飾する。その飾りは、年を重ねるごとに派手になったり美しくなったりするのだろう。


過去を物語るとき真実は果たして何%だろうか。全部嘘かも、なんちゃって。


ハンナ・アーレントの「過去と未来の間」のどこかとイサク・ディーネセンの何かを参考にしたらしいプリントを見ながら打った。詳細を引用出来なくてもやもや。

書くこと

2019/06/17に書いたものの再掲。

 

高1から大学入学まではAmeba、そのあとはTumblrとnoteを行ったり来たり、そして今ははてなと、長文(ここでいう長文とは1000字以上の文章のこと)を書くための場所を持つようにしている。Twitterはリアルタイムの思考や感情を勢いのまま書くのにちょうどいい、ただ毎日のように書いているとログをたどりたいときに困る。だからこうして腰を据えて書く、もしくはツイートたちをまとめて読み返せる状態にしておく場所は必要だなと感じる。

「書き残しておきたい」という感覚は昔から変わらない。基本的に長文を書くときは「大切な思い出の反芻」もしくは「過去現在問わず苦しさを感じること」についてであることが多い。同じ内容を何度も書くので、付き合いが長くなればなるほど「また同じこと言ってる……」という感想が出てくると思う。わたし自身が「これ前に似たようなこと書いたな」と思っている。それでも書きたい気持ちがあるから書くけど。


書くことは区切りをつけることだと思っている。言語化をして"書き切った"と思えた瞬間、それはわたしの中で「過去のもの」になって頭と手元から離れていく。こういうことがあって、こう考えて、ここに辿り着いた。その瞬間まで持っていた思考回路と結論の組み合わせがひとつの過去として結晶化する。一度結晶化されたものは考え続ける必要がなくなるので、空いた頭の容器にはまた次の何かを入れることができる。

「過去のもの」があるから「次のもの」を考えられるようになる。そのうちに「次のもの」を掴んで、書き切ると「次のもの」は「過去のもの」に、それまでの「過去のもの」は「古いもの」になる。整理と取捨選択。思考の循環を止めないこと。"書き切った"瞬間に考え方ががらりと変わることがよくある。書くことで自分の思考回路への執着を断ち切ったのだろうなと思う。「古くなった」言葉を消す癖があるんだけど、その行為は今いる位置に辿り着くまでの梯子を外すことにもなるので、あとから変遷を振り返りたいと思ったときに少し苦労する。


記憶のなかにある光景は書けば書くほど美化される。忘れたくないはずなのに、どんどん事実としての記憶から作られた記憶に、当事者視点というより編集された映像のようになっていく。削ぎ落としたもののことは忘れ、残された美しい記憶ばかりを反芻している。ずっと手元に置いて守っておきたい記憶から苦々しい要素が消えていくのは仕方がないことなのかもしれない。ずっとそばに置いておくものなら、思い出したときに手触りのよいものであるほうがいいから。
「たとえ本当から遠ざかるとしても、嫌なものは削ぎ落としてきらきらした一部分を凝縮しないと記憶を持ち続けることは無理だ」というわたしの心に、言葉で抵抗するにはどうしたらよかったんだろう。言葉にすることで感覚は薄れ、補完するための嘘が混じる。何より、言葉にできないもののほうが多いのだ。こういうとき自分のことを無力だと思う。

内言語をそのまま打ち出してくれるツールがあればいいのに。 今のわたしの中にある美しい記憶たちにリアリティを残しておくためには書かないことがきっと1番よかった。でも忘れたくなかった。忘れたくない。過去の記憶を脳内のイメージのまま写真みたいに切り取れる技術は今のところないし、写真や映像は撮ったとしても外見しか残せない。内側を残したいならやっぱり言葉で書き残すしかない。何をどう感じたか、何が存在したか。目に焼き付けた事実が、後に書いた言葉が形成する記憶に成り替わるとしても。 

 

苦しさを書き記すということ。過去のこれが苦しかった、今こんなことが苦しいっていう、同じようなことを何度も書かずにいられないのは、苦しさの根っこにある憎しみや悲しみをきちんと昇華しきれていないからかもしれない。満たされた、もう平気だと思えるようになるまで何度も何度も同じことを書いてしまうのだろうけど、むしろそうやって何度も書いてしまう部分から「何が昇華できていないのか」を探そうとしているのなら、書く意味はあるはずだ。そう信じたい。


高校生のときのブログには【わたしがいたことの「存在証明」をしたい】と書いていた。存在証明。自分が確かにそれを考え、想っていたということの証明。頭の中にあることは、表に出す形で表現しないと「在る」ことにならないから。
わたしはこれからも同じことを何度でも書いていく。わたし自身のために書き続ける。

愛を込めて殺意を。

19-20歳ごろに書いたものの再掲。

 

言葉がいかにつかえないものであるか。

感情が高ぶったとき言葉は本当に役に立たない。すごい、やばい、なにこれ。言葉にもならない欠片の数々。それを的確な表現や比喩を用いて即座に言語化出来る人はそう多くはいない。そもそもそれは言葉にしてしまうことで枯れたり輝きが失せたり、要するに野暮になることだってある。誰かに伝えようという意図が入り込むとどうしても歪むから。伝えるための付加や飾りが加わってしまうと言葉そのものの純度が下がるように思う。


言葉はひとを殺すために存在する。
「感情が高ぶった」というその感覚自体は多くの人間と共有できる場合が多くて、仮にそれを「うまく表現することが出来たら」それはひとを殺すことが出来る。ひとのこころのやわらかい部分を撃ち抜く、外側の鎧を破壊する。毒薬のようにじわじわと染み込ませる。受け取った瞬間に『これは一生忘れられない』と思わせることが出来たらそれは誰かのこころの一部を自分の言葉によって殺したのと同じだ。だってそうなればもう後戻りはできない、元の自分には戻れないから。不意にやったことなのか意図的にしたことなのかは関係ない。ひとを救いあげたくてやさしく置いた言葉でも、例えば撃ち込んでみたら思いがけず傷つけてしまった言葉でも、相手のこころに深く刻まれた時点で等しくひとを殺している。言葉は届かせるものではなく一方的に撃ち込むものだ。一生消えない傷なのだ。


言葉に殺されることを望んでいる。
読んで意味が頭に届いた瞬間に手が震えて呼吸がはやくなって手が冷えてぼたぼたと涙が落ちて思わずああと叫んでしまうような、頭からそれが離れなくなって現実から強制的に離れさせられるような、それは別に対象が絵画だろうが音楽だろうが出来ることなのだけど、わたしはそれを言葉に対して望んでいる。わたしを殺してくれる本をずっと探し続けている。これまでいくつかの物語はわたしのことを殺してくれた、けど、まだ足りない。この渇きはおさまらない。


言葉を愛している。
言葉と向き合うことがつらいからはやく言葉など忘れてしまいたい、言葉で思考し表現するのが人間であるわたしの特権なのに肝心なときに言葉がうまく選べないし適切な表現が出てこないことに怒りを覚える、本当に伝えたいことはうまく言葉にならない、もどかしくて仕方がない。それでも言葉を愛している。言葉というものは単語の選び方ひとつでそのひとの持つ価値観やセンス、見てきたもの聞いてきたもの読んできたもの得てきたもの忘れたもの抱えたいものが全部見えるから、ひとと関わる上で一番に、なによりも深く触れたくて、大事にしたい。自分のこころを誰かに手渡すために真剣に選ぶ言葉が愛じゃなかったら何になる。


言葉への祈り。
わたしにとって言葉は神様だった。イエスやアラーのような信仰対象としての神様は信じていないけど、祈らずにいられなかったから、言葉を使って言葉に対して祈っていた。どうかわたしを殺してくれ。どうかわたしを助けてくれ。もういいよって言ってくれ。わたしの思考をズタズタに壊してくれ。立ち上がれないほどぼろぼろにしてくれ。わたしの言葉は、わたしの祈りは、わたしを殺すには足りなかった。それなのに言葉以外の何も信じられなかった。言葉なんてものがなければわたしは思考しなくて済んだ、感情だって捨てられた、なのにどうして、なんて全力で呪ってみたりしたけど、結局言葉がなくては生きていけなかった。今のわたしの祈りはあの頃の祈りとは全く違うものだ、そしてあの頃の祈りの必死さに今のわたしは追いつくことができない。一生追いつくことはないと思う。


わたしにとって言葉とは愛であり殺意であり、祈る対象でありツールであり、生きるすべて/生きてきたすべてと言っても過言ではない。脳内に散り続ける言葉、音楽、駅の放送、ひとびとの話し声、インターネットの海、テレビの音声やテロップ、チラシ、食物の情報、毎日毎日言葉に塗れて過ごしていると持っていたい言葉ですらどんどん手から頭から溢れ落ちていく。本を読んだり展示に行ったりして拾い集めては自分の言葉の解像度の荒さや粗雑さに落ち込む日々だ。いっそ一度全部忘れてしまえたら、言葉を知る前に戻れたら、世の中に溢れる言葉が全部うつくしいと思えるのかもしれない。

(確か)21歳に書いたものを再掲。

 

心って結局何?という質問を心理学専攻だからかかなりの頻度でされるんだけど、これは本当に「ひとそれぞれの定義による、あなたがあなたの心を定義してください」としか言えない。わたしの回答としては、言葉の中に見えるもの。 何故言葉かというとわたしが使っている「わたし」 の表現方法が言葉だから。

わたしが心について話そうと思うと「テセウスの船」を前提におかなければならないのでまずはここから。 同一性に関する話で、一言で表すならば「 ある物体の全ての構成要素が置き換えられたときそれは『 同じもの』と言えるのか」。人間に例えてみると「 わたしの髪の毛、脚、腕、目玉、顔の皮膚、声、心臓、 脳みそといったパーツを他者Aのものと置き換えたとしてもわたしは『わたし』であると言えるのか」といった感じかな(そんなことが実際に実行可能なのか、という技術の問題は一旦無視)。

ひたすら身体を置き換えていったとき、わたしを「わたし」 たらしめる証明となるものが心だと思っていて、それを表現するものとしてわたしは言葉の選び方を見ると思う、ということだ。 

例えば事故や病気、整形で見た目が変わるとか声が変わるとか、 そうした身体の持つ要素の変化はわたしというものの存在にとって間違いなく大きい。自分ひとりだけで生きているのならばそれはただの変化でしかないかもしれないが、他者と共に生きるこの世界において外部から観測可能な自分の構成要素が変化したという事実は、わたしの外側から「今のあなたは、わたしの知っていた『あなた』とは持つ要素が異なる」 と突きつけてくるだろう。しかしながら、どれだけ身体的要素が変わっても、わたしの内側のはわたしのまま変わらない。

今は身体の要素を一切遮断してインターネット上でのみで会話し、関係性を完結させることすらも出来る。そこで、わたしをわたしたらしめる要素を言葉であると定義する。言葉の選び方を意識的に、かつ大幅に変えることは難しい。 言葉のみを要素としてひとを見るとき、句読点の位置や使う単語、文章の切り方、論理展開のなかに「そのひとらしさ」というものが絶対に存在する。書いた本人の自覚の有無に関わらず。 自分らしく文章を書いている限り「これは間違いなくわたしの書いた文章だ」と思えるのであれば、わたしというものを定義できると思う。言葉はわたしの意識が無くならない限り持ち続けることが可能だし、自分の言葉を誰かのものと取り替える手段をわたしは知らないから、主観的でいちばん不可侵で唯一無二のわたしというものはここにあると。

感情とは脳内のニューロンネットワークにおける神経伝達物質、電気信号の伝達やシナプスの興奮であると認識しているので感情そのものは心ではないが、それをどう表現するかというのは心であると考えている。 表現方法には絵や音楽といった言葉を使わない手段がたくさんあるけれど、 わたしはそれらを解釈したり理解したり思ったことを表現したりするために思考と知識(言葉で構築されるもの、言葉がないと成り立たないもの)を使わざるを得ないと思っているので、 言葉を無視することが出来ない。 わたしという境界線を引くのに使えるという意味でもやっぱり言葉がわたしの証明になる。

自分が使う言葉は自分の思考回路に一番適したものである、という持論もあって、「わたし」 の表現に一番適した言葉を使えるのはわたし以外いないと思っている。「この文章を書いたのはあのひとだ」「 この文章を書いたのはわたしだ」「この言葉でこれをこんなふうに表現するのはわたししかいない」 という認識ができなくなった時点でわたしは「わたし」 ではなくなる気がする。例えば、昨今話題の人工知能は集めた情報(しかも情報をインストールする人間の意図なり影響なりが少なからず入り込むもの)のなかから場に対する最適解(と判断されたもの)を打ち出しているだけであって「自分自身」 の言葉を持たないから心は無い、というのがわたしの考え(余談だけど)。

言葉の使い方ではなく選び方にしたのは、 何かを話すもしくは書くために文章を組み立てるとき、 単語の組み合わせとか内容の順番とかは変えられるので、 言葉の使い方だと結構変えられると感じているから。 選び方だと、それまでの経験とか、 関わってきた人たちとか、読んできた文章とか、 そういうのが如実に出るし、 普段は無意識で選んでるし何より咄嗟に取り繕うことが難しいので。

イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜

こんなにも感想を書きたくない展示は久しぶり、わたしの持つ拙い言葉の枠のなかにあのこころの揺れを収められるとは思えない。今もまだ鮮明な記憶のなかのあの場所に戻ることができるので、書き留める必要も感じない。でもわたしは怖がりなので、記憶が薄れることを避けるために記録をしたいと思う。

 

水の反射と光の動きが印象派の作品における中心的な要素らしい。このふたつはわたしが写真を撮るときに切り取りたいものでもあって、なるほど印象派は好きになれそうだなと思う。絵として描かれているものが「永遠ではなく移り変わる自然の前で感じた印象や感覚そのもの」であるという解説を読み、ふうん、と思いながら歩いていったところで足が止まった。

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レッサー・ユリィの「風景」。暑くも寒くもないやわらかい風が吹いて水面が揺れ、写り込む木々がそよぐシーンがぱっと思い浮かんだ。ああそうか、印象派の絵は風景のどこか一点にピントを合わせているのではなくて、画家本人の印象にピントが合っているんだ。風景を切り取っているのではなくて、美しいと思った、心が揺れたその瞬間ひとつひとつを埋め込むための画角として現れているのがこの絵なんだ。それがわかって一気に引き込まれていった。レッサー・ユリィはここで初めて知ったのだけれど、「夜のポツダム広場」「冬のベルリン」「赤い絨毯」とどれもぱっと目が向いた。かなり好きかもしれない。特に「夜のポツダム広場」がよかったな、冷たい雨に濡れた夜道を照らす光はわたしも好きだ。人々の歩みで歪んで雨粒に揺らがされ、ゆらゆらと光り続ける薄い水面。美は破壊されうるからこそ成り立つとはよく言ったもので、確かに水も光もその完璧な一瞬を捉えることは難しい。だから残しておきたくなるんだよね。

 

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モネの睡蓮。ひとがたくさん集まっていた。これは撮影OKのところで撮ったイスラエル美術館所蔵のもので、別室にあと3点睡蓮が展示されていた。睡蓮の比較、なんて贅沢なことをさせてくれる展示なんだ……。どの睡蓮も構図はほとんど同じなのだけど着彩に差があるので印象がかなり違う。朝の光のなかで描かれていそうなやさしい色合いの東京富士美術館所蔵のもの、いちばん花そのものが目立っていたDIC川村美術館所蔵のもの、日没間近の夕陽に焼かれていそうな和泉市久保惣美術館所蔵のもの。モネはきっと一日中睡蓮を描いていたんだな。季節や時間帯によって光の差し込み方が違って見飽きなかったんだろうな。

 

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ゴッホの「麦畑とポピー」。観たときに「この筆致と色の明るさはアルルにいた頃で耳を切り落とす前かな?あ、"印象派に触れた"タイミングの絵がこれか……!」と点と点が線でつながって、ゴッホ展に行ったことが活きたのがめちゃめちゃ嬉しかった。とにかく行ってみたことが無駄にならなかった。気持ちのいい青空と一面の鮮やかなポピー、いいなあ。深呼吸したくなる絵だ。

 

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セザンヌの「湾曲した道にある樹」、ドービニーの「花咲くリンゴの木」。好きだったもの。撮影OKゾーン広すぎない?いいの?と思いつつしっかり撮らせていただいた。三菱一号館ではお馴染みのルドンの「グラン・ブーケ」、これもじっくり観ることができて嬉しかったな。

楽しい展示だなと思いながらゆっくり観ていたら、ある絵の前でまったく動けなくなった。身体中の毛穴がぶわっと開いて、髪の毛が逆立っているような心地がして、自分の心臓の音がひどく大きく聞こえて、目を逸らすことができない。ルノワールの「花瓶にいけられた薔薇」。わたしのなかにあるなにも定まっていなかった"観たかったもの"が、唐突に形を持って目の前に現れた、という感覚だった。絵から目が離せないことって本当にあるんだ、絵を観ただけでこんなに胸が高鳴ることがあるんだ、この絵が家にあってほしいと本気で思うことがあるんだ、わたしってこんなに感情が動くんだ。なにもかもが初めてで本当に動揺した。この絵を観たあと他の絵をもう観たくなくて、最後の部屋を足早に一周した後もう一度薔薇をしっかり目に焼き付けてから外に出た。これまでいろんな展示を観に行ったけど、ここまで心を動かされた絵はこれまでになかった。びっくりして嬉しくて恐ろしくて、ふわふわしたままカフェに行った。

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落ち着きたくて注文したシブーストは動揺が抜けずあまり味がわからないまま食べ終わってしまった。カルヴァドスがっつりきいてるなあと思ったことは覚えている。

こんなに心動かされたのにミニキャンバスがない&ポストカードが売り切れていて崩れ落ちそうになったんだけど、心優しいフォロワーさんが代わりに購入して送ってくださることになった。本当にありがとうございます。額装したいので今素敵な額縁を探しているところ。

楽しくて忘れられない時間を過ごすことができた。ありがとう三菱一号館美術館

キューガーデン 英国王室が愛した花々 シャーロット王妃とボタニカルアート

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ボタニカルアートのジャンルでは芸術と科学は対等な関係にあり、単に美しいだけでなく科学的に正しいことが前提とされています。」

という文章を順路の最初のほうで読んだとき、「"正しい"ことが"美しい"と評価されているのはいいな」と思った。わたしはまだこのときボタニカルアートを絵画、芸術としてしか認識していなかった。

ウェッジウッドのクイーンズウェアがかわいい。銅板か黒鉛かで描かれた花の雰囲気が違う、銅板のほうが輪郭がぱきっとしている分"記録"っぽさが強いかも。ダーウィンウェッジウッドって関わりがあったの知らなかった。ルナーソサエティって世界史でやったっけ。キューガーデンの作品だけでなくて庭園美術館そのものが美しい。ぽつぽつと思い浮かんだことをメモしながら順路を辿る。会話非推奨なのでとても静か。音声案内もないからただ目の前の花と向き合う時間が続く。女性画家の作品が集められた部屋は特に絵の雰囲気がやわらかいような気がしたけれど、女性という事前情報なしに見て比較したかったなとも思う。印象に残ったのはピーター・ヘンダーソンかな。それまでの多くの作品が花単体の絵だったけど、このひとの作品には花だけではなく家のような人工物を含めた背景や水滴、虫食いのあとなどが描かれていた。植物にとっては葉に滴る水も寄ってくる虫も自然なことだ。そして植物が生きる場所で人間の営みがあり、人間や人間に作られたものと自然が共存してきたというのも嘘ではない。自然を正確に写しとるということを考える。

 

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カフェでひと息。テラス席に行きたかったけど満席だった、残念。オペラ・シャーロット、見た目も美しいし、薔薇のジュレとバタークリームがよく合っていて美味しかった。チョコレートがいいアクセント。

 

映像が2種類放送されていたので鑑賞する。ひとつめはキューガーデンの役割と働く人々について、ふたつめはキューガーデンの植物画家の方の作業について。ひとつめの動画で誇りを持って働いているひとがたくさんいるんだな、映像綺麗だなと思っていたらふたつめの動画に釘付けになった。写真や映像にはそれらの良さがあるというのは当然のこととして(技術の進歩!)、人間が植物を自らの手で描く意味。植物の持つ情報を取捨選択して"必要なもの"をより"正しく"描き出していくこと。ボタニカルアートは、色、形、大きさ(縮尺の比にとても気を遣っているようだった)、構成、そうした情報を伝えるための絵画だ。多くの植物が美しいから絵としても美しく描かれているのであって、その美しさが情報として正確であることが重要なんだ。目の前にあるものをそのまま切り取るような、今でいう写真としての役割ではない。目の前にあるものを、情報の塊に分解して再構築していく作業。情報から再構築された植物に、現実の植物との齟齬があってはならない。すべて本当である必要がある。ここの動画で、展示冒頭で出会った文章の意味がわかった。その美しさは正しく描かれたがゆえに成り立つものである、ということなんだね。植物画家の彼女の手が描き出したのは「神は細部に宿る」という言葉が浮かんでくるような線だった。

 

雨に濡れた土や葉のにおいを深く吸い込み、やわらかい秋の日差しを浴びながら静かな庭園を歩く。緑がいっぱいの空間。都内にこうして日常から切り離してくれる場所があったんだなあ。のんびり散歩をしていたら茶室に辿り着いたので見学させてもらう。「光華」という名前らしい。設られた大きな窓に目一杯映る木々を見て、この窓は額縁だということに気がつく。四季折々の自然の彩と太陽の光ををこの窓で切り取って飾っているんだね、なんて贅沢なんだろう。抹茶を点ててひと息ついたとき、ふと目を上げてうつる景色があれなのはとても羨ましいな。

とっても楽しい展示だった。もう一度行きたいくらい。