通じない言葉と感度

2014年に書いたものの再掲。

 

言葉が通じないひとがいる。普段使う言語が違う方や歳の離れた方が相手だからというわけではない。それなのに、わたしの使う言葉に対して「意味がわからない」と言われることがある。自分でこれはわかってもらえないだろう、と思って話すときは気にしないのだけど、日常生活でそれを言われるとやっぱり引っかかる。難しい言葉はあまり使わない方なのだけれど。

 


何かを物語るときには、物語りを受け取る相手に感度が必要。お互いの感度が共鳴して初めて相手は物語を受け取ることが出来る。物語りの深みを増していくためにはその共鳴の精度を上げていくこと。

これは【ものすごくうるさくてありえないほど近い】と【LEON】を題材にして「弱さの感度」について触れた講義で教授が言っていたこと。語るという作業で内面を表出するとき、受け手にそれを受け止められる感度がなければ、行き場をなくして存在をなかったことにされるものがある。

誰かの話を受け止めるには、それに含まれた「何か」に対して共鳴できる感度が必要だということ。含まれていた感情がどのようなものなのかはひとまず置いておくとして、話に出てきたその「何か」は物語りとして受け止められたときに初めて「意味のあるもの」になる。それらが意味を持つことが出来て初めて、「語り手が悲しみや喜びを表出した」ことになる。それを自分の感覚として理解できるかどうか、理解した上で踏み込めるかどうかが感度の共鳴の度合いということになる。*


感度の共鳴に何が必要か、色々ありそうだけれど、わたしは第一に想像力だと思う。言葉を用いて自分の感情を相手に共有し、そこからは相手の想像力に委ねること。共鳴の強度で言えば"同じ場にいて同じ経験、同じ感情を共有していること"に勝るものはないと思うが、自分以外に自分と全く同じ経験をしている、同じ心の構造を持つ人間はまずいない。共有された感情や思考をまず相手のものとして受け止め、そこに至るまでの過程を想像し、心と身体へ通して自分のこととして反応する、その応酬によって共鳴が発生していく、というアンテナ(感度)としての機能を自覚することが必要だ。


もしそのアンテナがなかった場合、「なんでそんなことが起こったのかがわからない」「なんでそう思ったのかがわからない」といった事象が発生する。

こんなときに使われるのが「最大公約数の言葉」だとわたしは思っている。様々な概念を含有する無数の言葉たちのなかで、みんなに伝わる大きな枠組みを持つ言葉。みんなが持っているであろう感情や感覚。理解されやすい簡単な表現。「買ったばっかりのソフトクリームを地面に落とした、"悲しい"。」そう言えばみんなわかってくれる。もっと言いたいことがあって、使いたい言い回しがあって、悲しいなんて一言じゃ済まなくて、でもそれを使うとわかってもらえないから。みんながわかる言葉で、アンテナがきちんと立つように。

最大公約数の言葉でも伝わらないこともある。そこにアンテナを立てることが出来る、ということ自体を知らなかった場合。例えば、死生観や生きる苦しみ、家族への絶望について。経験したことがないだけでなく、想像もつかないのだろう。フィクションとしか思えないのだろう。

 

わたしがそのまま使う言葉はきっと、みんなのアンテナに引っかからないのだ。最大公約数の言葉ばかりで喋ると疲れてうんざりしてしまうのに。いちいちわたしの言葉は周りに合わせて翻訳される必要があるみたい。52Hzのクジラなのかな。


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過去を物語るということは過去の記憶を今の言葉で編集するということで、自分が編集するのだから自分にとって耳触り手触りが良いものになるのは当たり前だ。自分に都合が良くなるように切り貼りして繋いだとしても自分以外にはわからない。過去の時点で存在していなかった、今に至るまでに得てきた思考や経験が過去の物語りを修飾する。その飾りは、年を重ねるごとに派手になったり美しくなったりするのだろう。


過去を物語るとき真実は果たして何%だろうか。全部嘘かも、なんちゃって。


ハンナ・アーレントの「過去と未来の間」のどこかとイサク・ディーネセンの何かを参考にしたらしいプリントを見ながら打った。詳細を引用出来なくてもやもや。