(確か)21歳に書いたものを再掲。

 

心って結局何?という質問を心理学専攻だからかかなりの頻度でされるんだけど、これは本当に「ひとそれぞれの定義による、あなたがあなたの心を定義してください」としか言えない。わたしの回答としては、言葉の中に見えるもの。 何故言葉かというとわたしが使っている「わたし」 の表現方法が言葉だから。

わたしが心について話そうと思うと「テセウスの船」を前提におかなければならないのでまずはここから。 同一性に関する話で、一言で表すならば「 ある物体の全ての構成要素が置き換えられたときそれは『 同じもの』と言えるのか」。人間に例えてみると「 わたしの髪の毛、脚、腕、目玉、顔の皮膚、声、心臓、 脳みそといったパーツを他者Aのものと置き換えたとしてもわたしは『わたし』であると言えるのか」といった感じかな(そんなことが実際に実行可能なのか、という技術の問題は一旦無視)。

ひたすら身体を置き換えていったとき、わたしを「わたし」 たらしめる証明となるものが心だと思っていて、それを表現するものとしてわたしは言葉の選び方を見ると思う、ということだ。 

例えば事故や病気、整形で見た目が変わるとか声が変わるとか、 そうした身体の持つ要素の変化はわたしというものの存在にとって間違いなく大きい。自分ひとりだけで生きているのならばそれはただの変化でしかないかもしれないが、他者と共に生きるこの世界において外部から観測可能な自分の構成要素が変化したという事実は、わたしの外側から「今のあなたは、わたしの知っていた『あなた』とは持つ要素が異なる」 と突きつけてくるだろう。しかしながら、どれだけ身体的要素が変わっても、わたしの内側のはわたしのまま変わらない。

今は身体の要素を一切遮断してインターネット上でのみで会話し、関係性を完結させることすらも出来る。そこで、わたしをわたしたらしめる要素を言葉であると定義する。言葉の選び方を意識的に、かつ大幅に変えることは難しい。 言葉のみを要素としてひとを見るとき、句読点の位置や使う単語、文章の切り方、論理展開のなかに「そのひとらしさ」というものが絶対に存在する。書いた本人の自覚の有無に関わらず。 自分らしく文章を書いている限り「これは間違いなくわたしの書いた文章だ」と思えるのであれば、わたしというものを定義できると思う。言葉はわたしの意識が無くならない限り持ち続けることが可能だし、自分の言葉を誰かのものと取り替える手段をわたしは知らないから、主観的でいちばん不可侵で唯一無二のわたしというものはここにあると。

感情とは脳内のニューロンネットワークにおける神経伝達物質、電気信号の伝達やシナプスの興奮であると認識しているので感情そのものは心ではないが、それをどう表現するかというのは心であると考えている。 表現方法には絵や音楽といった言葉を使わない手段がたくさんあるけれど、 わたしはそれらを解釈したり理解したり思ったことを表現したりするために思考と知識(言葉で構築されるもの、言葉がないと成り立たないもの)を使わざるを得ないと思っているので、 言葉を無視することが出来ない。 わたしという境界線を引くのに使えるという意味でもやっぱり言葉がわたしの証明になる。

自分が使う言葉は自分の思考回路に一番適したものである、という持論もあって、「わたし」 の表現に一番適した言葉を使えるのはわたし以外いないと思っている。「この文章を書いたのはあのひとだ」「 この文章を書いたのはわたしだ」「この言葉でこれをこんなふうに表現するのはわたししかいない」 という認識ができなくなった時点でわたしは「わたし」 ではなくなる気がする。例えば、昨今話題の人工知能は集めた情報(しかも情報をインストールする人間の意図なり影響なりが少なからず入り込むもの)のなかから場に対する最適解(と判断されたもの)を打ち出しているだけであって「自分自身」 の言葉を持たないから心は無い、というのがわたしの考え(余談だけど)。

言葉の使い方ではなく選び方にしたのは、 何かを話すもしくは書くために文章を組み立てるとき、 単語の組み合わせとか内容の順番とかは変えられるので、 言葉の使い方だと結構変えられると感じているから。 選び方だと、それまでの経験とか、 関わってきた人たちとか、読んできた文章とか、 そういうのが如実に出るし、 普段は無意識で選んでるし何より咄嗟に取り繕うことが難しいので。