愛を込めて殺意を。

19-20歳ごろに書いたものの再掲。

 

言葉がいかにつかえないものであるか。

感情が高ぶったとき言葉は本当に役に立たない。すごい、やばい、なにこれ。言葉にもならない欠片の数々。それを的確な表現や比喩を用いて即座に言語化出来る人はそう多くはいない。そもそもそれは言葉にしてしまうことで枯れたり輝きが失せたり、要するに野暮になることだってある。誰かに伝えようという意図が入り込むとどうしても歪むから。伝えるための付加や飾りが加わってしまうと言葉そのものの純度が下がるように思う。


言葉はひとを殺すために存在する。
「感情が高ぶった」というその感覚自体は多くの人間と共有できる場合が多くて、仮にそれを「うまく表現することが出来たら」それはひとを殺すことが出来る。ひとのこころのやわらかい部分を撃ち抜く、外側の鎧を破壊する。毒薬のようにじわじわと染み込ませる。受け取った瞬間に『これは一生忘れられない』と思わせることが出来たらそれは誰かのこころの一部を自分の言葉によって殺したのと同じだ。だってそうなればもう後戻りはできない、元の自分には戻れないから。不意にやったことなのか意図的にしたことなのかは関係ない。ひとを救いあげたくてやさしく置いた言葉でも、例えば撃ち込んでみたら思いがけず傷つけてしまった言葉でも、相手のこころに深く刻まれた時点で等しくひとを殺している。言葉は届かせるものではなく一方的に撃ち込むものだ。一生消えない傷なのだ。


言葉に殺されることを望んでいる。
読んで意味が頭に届いた瞬間に手が震えて呼吸がはやくなって手が冷えてぼたぼたと涙が落ちて思わずああと叫んでしまうような、頭からそれが離れなくなって現実から強制的に離れさせられるような、それは別に対象が絵画だろうが音楽だろうが出来ることなのだけど、わたしはそれを言葉に対して望んでいる。わたしを殺してくれる本をずっと探し続けている。これまでいくつかの物語はわたしのことを殺してくれた、けど、まだ足りない。この渇きはおさまらない。


言葉を愛している。
言葉と向き合うことがつらいからはやく言葉など忘れてしまいたい、言葉で思考し表現するのが人間であるわたしの特権なのに肝心なときに言葉がうまく選べないし適切な表現が出てこないことに怒りを覚える、本当に伝えたいことはうまく言葉にならない、もどかしくて仕方がない。それでも言葉を愛している。言葉というものは単語の選び方ひとつでそのひとの持つ価値観やセンス、見てきたもの聞いてきたもの読んできたもの得てきたもの忘れたもの抱えたいものが全部見えるから、ひとと関わる上で一番に、なによりも深く触れたくて、大事にしたい。自分のこころを誰かに手渡すために真剣に選ぶ言葉が愛じゃなかったら何になる。


言葉への祈り。
わたしにとって言葉は神様だった。イエスやアラーのような信仰対象としての神様は信じていないけど、祈らずにいられなかったから、言葉を使って言葉に対して祈っていた。どうかわたしを殺してくれ。どうかわたしを助けてくれ。もういいよって言ってくれ。わたしの思考をズタズタに壊してくれ。立ち上がれないほどぼろぼろにしてくれ。わたしの言葉は、わたしの祈りは、わたしを殺すには足りなかった。それなのに言葉以外の何も信じられなかった。言葉なんてものがなければわたしは思考しなくて済んだ、感情だって捨てられた、なのにどうして、なんて全力で呪ってみたりしたけど、結局言葉がなくては生きていけなかった。今のわたしの祈りはあの頃の祈りとは全く違うものだ、そしてあの頃の祈りの必死さに今のわたしは追いつくことができない。一生追いつくことはないと思う。


わたしにとって言葉とは愛であり殺意であり、祈る対象でありツールであり、生きるすべて/生きてきたすべてと言っても過言ではない。脳内に散り続ける言葉、音楽、駅の放送、ひとびとの話し声、インターネットの海、テレビの音声やテロップ、チラシ、食物の情報、毎日毎日言葉に塗れて過ごしていると持っていたい言葉ですらどんどん手から頭から溢れ落ちていく。本を読んだり展示に行ったりして拾い集めては自分の言葉の解像度の荒さや粗雑さに落ち込む日々だ。いっそ一度全部忘れてしまえたら、言葉を知る前に戻れたら、世の中に溢れる言葉が全部うつくしいと思えるのかもしれない。