書くこと

2019/06/17に書いたものの再掲。

 

高1から大学入学まではAmeba、そのあとはTumblrとnoteを行ったり来たり、そして今ははてなと、長文(ここでいう長文とは1000字以上の文章のこと)を書くための場所を持つようにしている。Twitterはリアルタイムの思考や感情を勢いのまま書くのにちょうどいい、ただ毎日のように書いているとログをたどりたいときに困る。だからこうして腰を据えて書く、もしくはツイートたちをまとめて読み返せる状態にしておく場所は必要だなと感じる。

「書き残しておきたい」という感覚は昔から変わらない。基本的に長文を書くときは「大切な思い出の反芻」もしくは「過去現在問わず苦しさを感じること」についてであることが多い。同じ内容を何度も書くので、付き合いが長くなればなるほど「また同じこと言ってる……」という感想が出てくると思う。わたし自身が「これ前に似たようなこと書いたな」と思っている。それでも書きたい気持ちがあるから書くけど。


書くことは区切りをつけることだと思っている。言語化をして"書き切った"と思えた瞬間、それはわたしの中で「過去のもの」になって頭と手元から離れていく。こういうことがあって、こう考えて、ここに辿り着いた。その瞬間まで持っていた思考回路と結論の組み合わせがひとつの過去として結晶化する。一度結晶化されたものは考え続ける必要がなくなるので、空いた頭の容器にはまた次の何かを入れることができる。

「過去のもの」があるから「次のもの」を考えられるようになる。そのうちに「次のもの」を掴んで、書き切ると「次のもの」は「過去のもの」に、それまでの「過去のもの」は「古いもの」になる。整理と取捨選択。思考の循環を止めないこと。"書き切った"瞬間に考え方ががらりと変わることがよくある。書くことで自分の思考回路への執着を断ち切ったのだろうなと思う。「古くなった」言葉を消す癖があるんだけど、その行為は今いる位置に辿り着くまでの梯子を外すことにもなるので、あとから変遷を振り返りたいと思ったときに少し苦労する。


記憶のなかにある光景は書けば書くほど美化される。忘れたくないはずなのに、どんどん事実としての記憶から作られた記憶に、当事者視点というより編集された映像のようになっていく。削ぎ落としたもののことは忘れ、残された美しい記憶ばかりを反芻している。ずっと手元に置いて守っておきたい記憶から苦々しい要素が消えていくのは仕方がないことなのかもしれない。ずっとそばに置いておくものなら、思い出したときに手触りのよいものであるほうがいいから。
「たとえ本当から遠ざかるとしても、嫌なものは削ぎ落としてきらきらした一部分を凝縮しないと記憶を持ち続けることは無理だ」というわたしの心に、言葉で抵抗するにはどうしたらよかったんだろう。言葉にすることで感覚は薄れ、補完するための嘘が混じる。何より、言葉にできないもののほうが多いのだ。こういうとき自分のことを無力だと思う。

内言語をそのまま打ち出してくれるツールがあればいいのに。 今のわたしの中にある美しい記憶たちにリアリティを残しておくためには書かないことがきっと1番よかった。でも忘れたくなかった。忘れたくない。過去の記憶を脳内のイメージのまま写真みたいに切り取れる技術は今のところないし、写真や映像は撮ったとしても外見しか残せない。内側を残したいならやっぱり言葉で書き残すしかない。何をどう感じたか、何が存在したか。目に焼き付けた事実が、後に書いた言葉が形成する記憶に成り替わるとしても。 

 

苦しさを書き記すということ。過去のこれが苦しかった、今こんなことが苦しいっていう、同じようなことを何度も書かずにいられないのは、苦しさの根っこにある憎しみや悲しみをきちんと昇華しきれていないからかもしれない。満たされた、もう平気だと思えるようになるまで何度も何度も同じことを書いてしまうのだろうけど、むしろそうやって何度も書いてしまう部分から「何が昇華できていないのか」を探そうとしているのなら、書く意味はあるはずだ。そう信じたい。


高校生のときのブログには【わたしがいたことの「存在証明」をしたい】と書いていた。存在証明。自分が確かにそれを考え、想っていたということの証明。頭の中にあることは、表に出す形で表現しないと「在る」ことにならないから。
わたしはこれからも同じことを何度でも書いていく。わたし自身のために書き続ける。